最近、知的発達障がい児を持つ母親の方々とお話する機会がありました。
お話していて感じたのは、そのママさんたちが心の奥底で、必ず一度は、「なぜ私が、このような(障がい児の母親になるという)めぐり合わせになったのだろう?」という自分への問いかけです。
この問いかけに対する答えは、なかなか見つからないようです。
民主党政権時代、私が障がい者対策担当の内閣府副大臣をやっていた時も、同様の話を何回も聞きました。
同時に、ママさんたちは、一生毎日障がい児のお世話をしていかねばならないという生活の現実があります。
ここにママさんのお一人から最近来たメール(一部抜粋)があります。
「障害者障害児の家族はいつも揺れたり、悩んだり、凹んだりしています。
でも、意味があって私たち家族の一員になってくれたのだと思いますし、家族が痴呆や病気やいろんな困難にぶち当たることもきっと意味があると思っています。
生きている間に起きる宿題はやっぱりやっていこうと思いました。」
人生ヒトそれぞれですが、「やはり私たち人間は、ヒトそれぞれの宿題を負っているのだな!」という感じを改めて思いました。
そして、その宿題は「自分のためだけに与えられ、自分だけしか解くことができないものなのだ!」ということでしょう。
高い見地からの素晴らしい「諦観」だと思いました。