Profile
経歴



衆議院議員
末松 義規
(すえまつ よしのり)
14年間外務省に外交官として勤務
元内閣総理大臣補佐官
初代復興副大臣
経歴
公職歴
・衆議院議員(8期)
・内閣府副大臣
・東日本大震災復興対策本部 宮城現地対策本部長
・内閣総理大臣補佐官
・初代復興副大臣兼内閣府副大臣
(現在)
・衆議院外務委員会 筆頭理事
・立憲民主党 倫理委員長
略歴
学歴
・1956年福岡県生まれ
・外務公務員採用上級試験(外交官)合格
・外務省入省(1980年)
・湾岸危機・中東・ODAなどを担当
・通商産業省出向(国際石油問題を担当)
・外務省を退職(1994年)
学歴
・一橋大学卒業(1980年)
・プリンストン大学 中東学部大学院修士課程終了(1986年)
1956年12月6日(戸籍は5日)、サラリーマンだった父・弓人と母・和子の第二子の長男として福岡県北九州市八幡西区引野で生まれました。



生後20日
幼い頃 父と
年子の姉と





地元の引野小学校→引野中学校→東筑高校と進学。東筑高校の大先輩に、俳優だった故・高倉健さんやオリックスの故仰木監督がおられます。
小学校時代は意外と奥手でした。学級委員とか務めていましたが目立った活動というのはそれほどしていなかったと思います。スポーツは好きで、 小学校の頃は卓球、中学では柔道、高校はラグビー、大学は少林寺拳法(黒帯)もやりました。
今では毎日5km~12kmほどの散歩を楽しんでいます。高校生時代
小学校へ入学
引野小学校修学旅行
(下段真中)
中学一年生
大学生時代
母親の父親が南満州鉄道に勤めていた関係で、母は満州国の首都であった新京、今でいう長春で生まれ育ち、15歳の時に終戦を迎え、引き揚げを体験しています。その時、関東軍が終戦間近に日本に逃げ、居留民は裸の状態だったところにソ連兵が侵入。暴行などが行われ祖母は激しく抵抗したため、その場で射殺されたそうです。
それを見た母は半狂乱になりながら、頭を坊主にして顔に炭を塗って命からからがら逃げ帰ってきたことを、母が亡くなったのち叔母から聞かされました。母は大ショックを受けたためか、満州のことは、私には何も言いませんでした。
その母は、私が中学校2年生の時に病気で他界しています。
それがきっかけで「死」というものや「私とは何者なのか。」そして「私はどこから来てどこに行くのか」などを突き詰めて考え抜きました。結局、結論が出ず、精神世界や宗教世界に強い関心を抱くことになります。
同時に、人のことを気にしながら自分を合わせようとする日本人的性格が嫌になってきて、そこで海外の本物に会ったら自分が救われるのではないかと思うようになりました。海外志向になってきたのです。
満州のことは何も言わなかった母
大学について最初は公認会計士になろうとして1976年一橋大学に入りましたが、結局公認会計士は簿記や監査などをやることが分かって、自分に向いていないと思いました。
それで以前から考えていた海外の本物に会おうと外務省を目指す方向に転向しました。ゼミは皆川ゼミ(国際法)を選択、4年生の時に外務公務員上級試験に合格し、翌1980年外務省に入省します。ゼミと少林寺拳法に明け暮れる中
東北一周自転車旅行を達成

大学時代に中国語を専攻していたので外務省でも中国語をやるものだと張り切っていましたが、当時の藤井人事課長から「末松君、君は砂漠でも生きていけそうだから、アラビア語をやってくれたまえ」と言われてめまいを覚えるほどのショックを受けました。
私はこれで「人生が決まる」と考え、人事課長相手に2時間粘りました。「中国語ができないなら外務省をやめる」と啖呵を切ったり「気が弱いのでアラブ人を相手にできない」と泣き落としまで試みました。
人事課長はおもむろに腕時計を見て「末松君とやら、君は、この鬼の藤井と言われた私を前に2時間も粘って、気が弱いとは言わせないよ!」と言われて、「ああ、勝負がついた」と思い、あきらめました。外務省京都での研修中のひと時

1980年9月、入省した年の9月にイラン・イラク戦争が勃発します。担当課に配属され、まさに徹夜続きの毎日でした。
1984年、アラビア語の研修のための初の海外赴任地がシリアになりました。実は中東はアラビア語はもちろんですが、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教などの宗教がわからないと仕事ができないのです。だから宗教も必死で勉強しました。十代の頃に必死で考えてきた「死とは何か?」、「自分とは何か?」、「自分はどこから来てどこに行くのか?」、などと考えていたこともあり、気が付いたら2500冊くらいは宗教的なものや精神世界のものを読破していました。
人間万事塞翁が馬、あれだけ嫌がっていたアラビア語が私のベストの選択になったのです。中近東第2課での初仕事

赴任地としてシリアに1年、エジプトに1年、語学の研修で滞在し、その後は米国のプリンストン大学で中東学を学びます。1986年にMA(修士号)をとりました。そしてイラク大使館で2等書記官を2年間務めます。
そのバグダッドでの2年間の任期中、イランからスカッドBという巨大なミサイルの攻撃を幾度となく受け、衝撃的かつ悲惨な戦争現場を直接体験しました!
「良い戦争も悪い戦争もない!あるのは残酷な戦争現場と無残な死体だけ!」と悟り、それまで9条改正派でしたが憲法第9条護持派となったのです!
また一方では、深夜に自宅の近辺で、100頭ぐらいの野犬に囲まれて食い殺されそうになったり、在宅中に数人の武装強盗に入られそうになったり、危うく死にかけるような強烈体験を何度か重ねることになったのです。イメージ


シリア大使館に赴任 アラビア語を猛勉強!
この5年間の海外勤務を経て帰国して感じたのは「日本人は素晴らしい!」ということです。
かつて私は人に合わせようとする日本人的性格が嫌いでした。だから海外で本物に会いたいと思っていました。
しかし海外勤務を経て、日本人も外国人に劣らないし優れた面も多い。平和を愛する立派な国民であり国家であるということに気がついたのです。その後帰国し、中東の専門家として、通産省に出向し国際石油情勢や日本の石油輸入を担当しました。外務省に戻ってからは、核不拡散や原子力協定等を担当する課に首席事務官(課長代理)として勤務していました。
1990年、外務省の中近東アフリカ局中近東第2課に転属となった直後に、「湾岸戦争」という世界的な大事件、日本外交にとって未曾有の危機が勃発します。
湾岸産油国の直接担当課として対応に忙殺(月間の超過勤務時間が300時間になったこともあり)される中、日本は、ほとんど無力だなと感じました。
こうした危機に対する法律もない、人事システムもない、予算もありません。政治家も外務省にまかせきりでなかなか有効な対策をとれていませんでした。
同時に、最も印象的だったことは、米国が「日本のご主人様」のような横柄な態度で接してきて、外務省(日本)が唯唯諾諾として米国に隷属していたことです。「これでは、日本は独立国家とは言えない」と強烈な危機感を抱きました。
この件で役人としての限界を痛感し、政治的な決定に関わっていきたいと退職を決意します。
1994年、ODA担当課勤務中に37歳で外務省を退職しました。外務省は退職し、当時、自民党を飛び出した改革勢力の「新党さきがけ」に入党します。
幼い子供を抱えて、友人に借金しながらの苦しい浪人生活が1年続いた頃、外務省の元上司から復職についてお声がけをいただきました。涙が出るほど嬉しかったです。しかし「甘えてはいけない、前進しかない」という気持ちが逆に強くなりました。
結局、浪人時代は1年10ヶ月に及び、どこまで何をやればいいか、家族と周りの方々に助けられ、手探りと不安の中で突き進んだ気がします。
1996年10月、小選挙区制が初めて導入された第41回衆議院総選挙で、民主党候補として東京19区から初当選を果たしました。約2年の浪人生活を経て初登院を果たす

初めての選挙戦

経歴
著書
官邸、内閣府にいたからこそ書ける
「私が日本の弱体化を狙うA国のトップリーダ―だとしたら…」、著者はこんな仮定で日本の弱点や危機的状況を明るみにします。
総理補佐官や内閣府副大臣を務めた経験からその指摘は切実かつ切迫したものばかり。
お寒い官邸の情報管理体制、したたかな財務省の動きなど、現場にいたからこそ書けるエピソードが満載です。
著書


